広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにも見ることができる猿橋は、「岩国の錦帯橋」「木曽の棧(かけはし)」と並ぶ「甲斐の猿橋」は、日本三奇橋のひとつ。

  

珍しい構造
 長さ31m、幅3.3mのさして大きくない木橋ですが谷が31mと深く、橋脚がたてられないため、橋脚を使わずに両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支えています。


橋と渓谷
猿橋は橋と周囲の自然景観との調和の見事なことから昭和7年に国の名勝に指定されました。安藤広重の「甲陽猿橋の図」も有名です。
画面奥 猿橋  
画面手前 八ツ沢発電所一号水路橋
※八ツ沢発電所一号水路橋

平成9年9月16日文化財登録 
管理者:東京電力株式会社 
駒橋発電所で利用した水を下流にある上野原八ツ沢地区の発電所で有効利用するために架けられた水路。
※駒橋発電所

 明治42年12月、東京早稲田変電所への遠距離送電成功により大規模水力発電所の草分けとなる。

猿橋の歴史
猿橋架橋(奈良時代)
 猿橋の架橋の始期については、「昔、推古帝の頃(600年頃)百済の人、志羅呼。この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」という伝説があります。
橋畔にある猿王を祭る山王宮の小祠

史実(室町時代)
 文明十九年(1478年)、聖護院門跡道興が訪れ、「猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり。」と廻国雑記に記しています。
甲州防御の拠点(戦国時代)
 当時、甲斐の国を治めていた武田氏は抗争において度々猿橋に陣を張ったという記録が残っています。戦中には敵の進行を防ぐために橋を焼き落としたこともあったようです。
甲州街道(江戸時代)
 徳川幕府により開設された五街道の一つが甲州街道です。江戸城に万が一の事態に遭ったときには甲府城を幕府の拠点にするための重要な軍用路だったと言われています。大月市内には甲州四十五宿の内、十二宿がありました。多くの旅人が猿橋を渡っていったことでしょう。